« 結論の明確さと反証可能性 | メイン | 自然 »

上月城の戦い

上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。

上月城は播磨・美作・備前の三国の国境にある要衝の地であり、毛利側としては織田氏との対決の為には絶対に手に入れなければならない拠点である。しかしこの地が織田氏の羽柴秀吉の手に落ちた。そして尼子氏残党である尼子勝久や宿敵・山中幸盛(鹿介)らがこの上月城の防衛を任された。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

これに対し、毛利輝元は1578年3月、上月城の奪還と尼子残党の討伐を計画。輝元は35,000の大軍を率いて吉田郡山城を出陣、小早川隆景も28,000の兵を率い三原城を出陣して山陽道を進撃、山陰の雄・吉川元春も23,000の兵を率い日野山城を出発して山陰道を進撃、上月城攻略に向かった。毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多忠家も10,000の兵を率いて参陣した。他に毛利・村上水軍700艘が播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了した。この時の総動員兵力は100,000人を超えるもので、打倒尼子の意気に燃える毛利氏の執念を垣間見ることができる。

輝元軍は備中高松城に本陣として駐留。残りの61,000が播磨へと向かい、4月18日には早くも上月城の包囲を開始した。

上月城を守るのは尼子勝久を総大将とし、山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通らの諸将が率いる3,000の兵であった。

羽柴秀吉、上月城への支援へ向かう
毛利軍が上月城に迫ったとの報を受けた際、羽柴秀吉は三木城の攻撃に当たっていた。しかしただちに上月城の支援を決意し、17,000の兵を率いて高倉山に進出した。織田信長も嫡子・織田信忠に兵を授け、救援に向かわせた。

この時点で織田軍の総兵力は72,000であったが、三木城を攻撃中でもあり、不穏な空気に包まれている播磨国東部の守備に多くの兵を割かねばならず、実際に上月城救援に向かえる兵力は羽柴秀吉・佐久間信盛・荒木村重率いる30,000、その中でも秀吉が直接指揮できる部隊はわずか17,000人であった。戦上手の秀吉でも60,000人以上の兵力を率いる毛利軍に対して、積極的に攻撃に出られる兵数では無かった。

これに対して毛利軍は陣城の構築を進めており、深い空堀や塹壕を掘り、塀を巡らし柵や逆茂木で防備を固め、完璧なまでの攻城線を敷いた。そして連日法螺貝や太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、城内に籠る尼子軍の戦意を喪失させようと画策した。

小競り合いは起きるものの、尼子軍の兵糧は少なくなり、山中幸盛の叱咤激励にも関わらず士気は衰える一方で、逃亡兵も相次いだ。毛利軍も城を強襲するつもりはなく、月山富田城攻略のように兵糧攻めにし、尼子軍の自滅を待つ作戦であった。上月城の水源も押さえ、なおかつ糧道も完全に断っている。最早尼子軍は「俎板の上の鯉」であった。

毛利 対 秀吉
羽柴軍は上月城の目と鼻の先である高倉山に駐留するものの、圧倒的に劣る兵数では上月城に対する積極的な支援を行うこともできず、自陣の防衛だけで手一杯であった。隙を見せれば毛利軍60,000が一斉に襲ってくる恐怖は秀吉にも耐えがたいものであった。

進退に窮した秀吉は6月半ばに密かに高倉山を抜け、京都へと走り、織田信長に直々の出陣を要請した。しかし信長は使い捨て同然の尼子再興軍3,000など眼中に無く、まずは三木城の別所長治を討つべしと秀吉に命令した。このまま三木城を放置していては、中国に進出している織田軍は退路を断たれるのである。上月城の尼子主従はここに見捨てられることとなったのである。秀吉は尼子主従の忠義を思い、「上月城を棄て、共に撤退するよう」尼子軍に書状を出したが、尼子主従はこれを黙殺し、毛利軍との対決の道を選んだとされるが、秀吉退却後間もなく尼子軍は降伏しているため、秀吉が人情深い人間とするための脚色だと思われる。

熊見川の戦いと羽柴軍の撤退
6月25日、羽柴軍は撤退準備に入ったが、これを察知した毛利軍が攻撃を開始し羽柴軍は一時は総崩れとなり、大打撃を被った。(熊見川の戦い) 翌26日、羽柴軍は瀕死の重病人のようになりながらの散々の退却を行った。ただ毛利軍がそのまま東進して、織田信忠と対決に及ぶことはなかった。

この戦いに参加していた毛利軍の武将・玉木吉保著作の「身自鏡」には退却した羽柴軍の陣前に「夏山に立てる羽柴の陣なれば、秋(安芸)風吹けば散り失せにけり」という歌が毛利軍兵士の手によって残されていたと記録されている。

秀吉のこの戦いの経験が、後の中国攻略に於いて毛利軍との直接的な戦闘を避ける事に繋がったと思われる。

尼子主従降伏 上月城落城
秀吉が救援を断念した現状に於いて、徹底的な抗戦は無理という考えが城内の主流となり、降伏が取り沙汰されるようになった。7月1日、尼子主従は抗戦を諦め、城兵の助命を条件に尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らは自刃し、開城することとなった。7月3日、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久らは自刃し、山中幸盛も捕虜となり、後に安芸国に送られる途上で殺害された。これによって70日に及んだ上月城攻防戦は幕を閉じ、尼子氏再興も夢と消えたのである。

その後の影響
この戦いが今後始まる“毛利 対 織田”の本格的な対決のはしりとなったのである。羽柴秀吉は三木城を奪還後、兵力増強し再度中国攻略へと向かい、毛利氏は近畿で織田氏に抵抗を続ける本願寺顕如が籠る石山本願寺への支援を行うのである。この両軍の争いは「本能寺の変」が起きる1582年まで続くこととなる。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.nmypwc.biz/blog/mt-tb.cgi/800

About

2009年01月28日 16:05に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「結論の明確さと反証可能性」です。

次の投稿は「自然」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35