百日天下とその後
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗してナポレオンの復位(百日天下)は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。セントヘレナにおけるナポレオンはパズルを中国人から貰うなりしており、現在でもそれが残されている。
ナポレオンはごく少数の随行者とともに島中央のロングウッドの屋敷で生活した。その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、ナポレオンの行動を監視した。また、乗馬での散歩も制限され、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セント・ヘレナ覚書』など)。これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はロウという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。
そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し1821年に死去した。彼の遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘されている(彼の死因をめぐる論議については次項で述べる)。その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
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