2009年06月29日

自然に存在するものについて研究する学問

博物学(はくぶつがく、Natural history, 一名:自然史)とは、自然に存在するものについて研究する学問。広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物・岩石など、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。東洋では本草学がそれにあたる。

自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、古代ローマ時代ではプリニウスの『博物誌』などがある。
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東洋では「本草学」と呼ばれ、伝統中国医学の「薬(漢方薬)」(または仙人になるための方術である錬丹術に必要とされた霊薬仙丹)の原材料の研究とともに発達した。明の時代に李時珍が書いた『本草綱目』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。

ヨーロッパの大航海時代以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・茶・ゴム・コショウなど、経済的に有用な植物を確保するため、プラントハンターと呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、東南アジアのフウチョウなどの標本がヨーロッパにもたらされた。

19世紀後半(主にチャールズ・ダーウィン以降)に入ると学問が細分化し、博物学は動物学・植物学・鉱物学・地質学などに細分化され、大きくは生物学とがそれぞれ異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。

2009年06月12日

高カロリー輸液(こう-ゆえき)

高カロリー輸液(こう-ゆえき) TPN(Total Parenteral Nutrition)は輸液の一種である。1968年、米国の外科医スタンリー・ダドリックによって開発され、経口栄養のできない重症患者の長期管理に革命的な影響を与えた。なお、当時ダドリックは一介の外科レジデントに過ぎなかった。

通常の末梢輸液では、ことに高濃度ブドウ糖の使用によって血管炎を引き起こすリスクがある為、生命維持に必要なだけのエネルギーをそれだけで充分供給することが困難であった。つまり、大手術などで、2?3週間以上のスパンで患者の経口摂取ができない場合、その疾患自体でなく、異化亢進による栄養失調によって患者が衰弱していくことになる。

この問題を解決する為にダドリックは、通常点滴等に用いないような太い静脈(いわゆる中心静脈・・・通常は鎖骨下静脈、内頸静脈、大腿静脈などの身体表層の静脈が用いられる)をあえて輸液ラインとして確保することを試みた。これにより、血液による希釈が起き、血管炎を起こさずに高濃度のブドウ糖を患者へ投与することが可能になった。この新技術により、時には一年以上にもわたり、患者を経口の栄養摂取なしで生存させることができる。TPNは周術期や慢性疾患の患者にとっては大変な福音となった。ただし、重症患者の管理に新たな倫理的問題をもたらした面も否定できない。
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TPH製剤は、歴史的経緯からもわかるように、高濃度のブドウ糖を含むことが多く、中心静脈経路(central venous line;CV line)から投与が原則となる。IVH (Intravenous Hyperalimentation)とも呼び、在宅で高カロリー輸液を受ける時は在宅中心静脈栄養(HPN: Home Parenteral Nutrition)とも呼称する。消耗性疾患や消化器疾患などで長期間、経口摂取が出来ない時に使用する。消化管が使用可能であれば、経腸栄養(EN : Enteral Nutrition)に切り替えて行く。

2009年06月07日

対爆スーツ(たいばくスーツ)

対爆スーツ(たいばくスーツ)(英:Bomb Disposal Suit、Explosive Ordinance Disposalを略してEODとも呼ばれる) とは、爆発物などの爆風、破片などから身体を防護する為に開発された特殊作業服 である。主に軍隊と警察の爆発物処理作業者が着用する。防爆スーツ(ぼうばくスーツ)ともいう。日本の警察では防爆防護服(ぼうばくぼうごふく)と呼んでいる。

一般人は全くといっていいほど着用する機会はない。工業的に爆発の危険性がある場合には対爆スーツを着用するのではなく、爆発そのものが起きないように安全管理を行うことが基本だからである。

有機化学の実験などで、爆発危険性の高い実験を行う場合などに着用する対爆スーツも存在する。 しかし、近年ではそのような実験は隔離されたドラフトチャンバー内で行うのが通例である。そのため、対爆スーツはあまり必要とされていない。発破作業や火薬学における実験においても、人員が爆風にさらされないように安全管理することが基本事項である。ヘルメット以上の装備を使用することはどこの国でも普通は無い。

大変に高価な装備である。そのため、カンボジアなど発展途上国の地雷処理関係者などはヘルメットに防弾チョッキ程度の軽装で間に合わせていることも多い。
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日本では、警察や自衛隊で爆発物処理作業にあたる者が着用し任務に当たる。

近年では、テロ対策から民間需要が激増し、売り上げが急激に伸びている。 カナダのガバメンツ社では二年間で販売件数が急激に伸び、MK5対爆スーツを販売するためにアメリカで2005年に合資会社として製造メーカーから独立したフォースウエア社が立ち上げられている。 加えて、安価な中国企業の製品が数多く出回っている。これは空港会社や警備会社などいままで必要としていなかった民間企業からの需要が激増したためである。実際問題として民間企業で有効活用できるのかどうか疑問はあるが、社会的な不安から御守り程度の意味合いで購入する企業が増えているためとも思われる。 また、重役などが自衛のために会社に置いているとも言われている。

2009年04月24日

多くの島が活発に火山

千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。2006年(平成18年)3月分のNEWTONには詳細な図が書かれており、成層火山の頂上が北海道にぶつかったものが現在の知床半島とされる。

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プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。

温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。

列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,819mの高さを誇る。

島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。

2009年04月06日

マズルカ

マズルカ(mazurek)は、4分の3拍子を基本とする特徴的なリズムを持つ、ポロネーズと並んで有名なポーランドの民族舞踊およびその形式(舞曲)である。第1拍は付点リズムが多く、第2もしくは第3拍にアクセントが置かれる。マズルカの他に似たものとして、より速いテンポの「オベレク(Oberek)」、ゆっくりとしたテンポの「クヤヴィヤック(Kujawiak)」など、地方により多様な名称のものがある。

19世紀、ポーランド貴族(シュラフタ)のあいだで流行した。ショパンは諸地方の舞曲の要素を統合し、マズルカを芸術作品として昇華させた。

主なマズルカの作曲家 [編集]
ユゼフ・クサヴェルィ・エルスネル (Józef Ksawery Elsner) …ショパンの師匠として有名。
カロル・クルピンスキ (Karol Kurpiński)
マリア・シマノフスカ (Maria Szymanowska)
スタニスワフ・モニューシュコ (Stanisław Moniuszko)-- (オペラ「ハルカ」、「幽霊屋敷」)
フレデリック・ショパン (Fryderyk Chopin)
ヘンルィク・ヴィエニャフスキ (Henryk Wieniawski)
ユリウシュ・ザレンプスキ (Juliusz Zarębski)
カロル・シマノフスキ (Karol Szymanowski)
アレクサンドル・スクリャービン (Alexandre Scriabin)
アレクサンデル・ザジツキ (Aleksander Zarzycki)

ポーランドでは [編集]
なお、マズルカのポーランド語での名称は「マズレック」(mazurek)であり、「マズルカ」(mazurka)はその対格形もしくは生格形である。ポーランド語では「マズルカを踊る」などと言う場合には"tańczyć mazurka(eは欠落)"というように対格形が要求される。主格よりもこの格で用いられることが多いゆえか、「元のかたち」が"mazurka"であると認識されたために広く「マズルカ」として定着したものと思われる。

また、ポーランドにおいてはダンスが「マズル」、その舞曲が「マズレック」として区別されているようである。

ちなみに、ポーランドの国歌は『ドンブロフスキのマズルカ』で、勇壮なマズルである。

百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ


2009年03月22日

モデルアート

モデルアートとは、モデルアート社が発行する模型雑誌で、主にプラモデルの作例、その作例に関する写真・資料掲載記事や新製品の紹介記事などである。

設立 - 1966年11月九州に模型販売店を営んでいた井田博が創刊。
商号 - 有限会社モデルアート社
所在地 - 〒102-0073東京都千代田区九段北1-12-30矢野ビル6F
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

月刊モデルアート [編集]
主にスケールモデルをメインとしている創刊40周年を迎えた模型雑誌。創刊当時は、エアモデルの模型作例の紹介記事がメインだったが、現在では戦車などのミニタリーAFV、カーモデル、戦艦などのスケールキット全般の模型作例を掲載している。近年は、数度の雑誌リニューアルを重ねてビジュアル面は多少見やすい誌面となったが、1980年代のガンプラブーム時にも他誌との競合は避け基本的な編集方針は変わらずに、「スケールモデルの作る楽しみ・魅力を伝える」模型雑誌として長年愛読している読者も多いのが特徴。

連載 [編集]
連合艦隊編成講座 - ウォーターラインシリーズシリーズのキットを使用した連載企画。
コラム - 飛行機と模型にまつわるエトセトラ
でものはつもの - 新製品紹介
モデリングJASDF - 航空自衛隊が保有する(していた)航空機の模型の製作記と実機取材の連載

主な発行誌 [編集]
月刊モデルアート - 毎月25日発売
季刊艦船模型スペシャル

別冊 [編集]
模型を趣味とするモデラー人口を開拓する目的とした、ハウツー物の初心者向け別冊を積極的に出版している。

その他 [編集]
近年力を入れている資料性の高い航空機・戦車・第二次世界大戦機などのDVDビデオを販売している。
創業者の著作 - 「日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- 」井田博 著、文春ネスコ発行 ISBN 4890361871
小林誠の作品集『ハイパーウェポン』シリーズが同社より刊行されている。

2009年03月07日

1883年の艦隊法の成立をもって近代海軍

アメリカ合衆国海軍は1883年の艦隊法の成立をもって近代海軍への脱皮を開始する(これをニューネイビーという)が、まず建造されたのが、1884年から順次竣工したアトランタ、ボストン、シカゴの通称「ABC巡洋艦」と、それに続く防護巡洋艦群である。その後防護巡洋艦は、1888年に完成したニューアーク(C-1)、チャールストン(C-2)から1904年のチャールストン(C-22;2代目)まで、輸入艦のためC番号が付されなかった2隻を含め、全部で27隻が装備された。

防護巡洋艦という類別は1920年の分類変更によって消滅し、その時点で残存していた防護巡洋艦は一部は重巡洋艦(CA)に、大多数は軽巡洋艦(CL)に再分類された。

イギリス海軍
エドガー級防護巡洋艦のジブラルタルイギリス海軍は1880年代の終わりに巡洋艦を一等、二等、三等に区分し、1905年にかけて通商保護のため大量の建造を行ったがその大半は舷側装甲を持たない防護巡洋艦であった。一等防護巡洋艦は装甲巡洋艦に匹敵する大きさと武装を持ち、1880年代後半から一等装甲巡洋艦に代わるものとして建造された。二等防護巡洋艦は排水量3,000?5,500トンで、通商保護と艦隊における偵察任務に従事した。三等巡洋艦はさらに小さくて、二重底さえ欠いており、通商保護、偵察あるいは魚雷攻撃を任務とした。

19世紀末期に導入されたクルップ鋼により一等巡洋艦でも効率的な装甲が実現できるようになり、そのため大型の一等防護巡洋艦は1898年以後建造されなくなった。より小型のクラスでは1905年まで防護巡洋艦の建造が続いたが、1910年頃には舷側装甲を装備したタービン推進の軽巡洋艦に移行した。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍
防護巡洋艦カイゼリン・エリーザベトオーストリア=ハンガリー帝国は7隻の防護巡洋艦を整備した。これらは、すべて国産で建造された。

パンター級(1885年):パンター、レオパルト
カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世級(1890年):カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世、カイゼリン・エリーザベト
ツェンタ級(1899年):ツェンタ、アスペルン、シゲトヴァール ※オーストリア=ハンガリー帝国海軍では軽巡洋艦に分類された。

オスマン帝国海軍
防護巡洋艦メジディイェオスマン帝国では、4隻の防護巡洋艦を整備した。これらは、バルカン戦争や第一次世界大戦で活発に作戦行動に従事した。

ハミディイェ(1904年)
メジディイェ(1905年、アメリカ合衆国)
ペイキ・シェヴケト
ベルキ・サトヴェト

清国海軍
防護巡洋艦超勇
日本に鹵獲されたあとの防護巡洋艦済遠清では、近代海軍の創設とともにイギリスやドイツに発注し防護巡洋艦の整備を行ったが、日清戦争でその勢力は大きくそがれた。2隻の防護巡洋艦は日本軍に接収されている。しかし、建造中の艦が日清戦争以後に本国に回航されて戦力の低下は防がれた。

広甲
広乙型(1894年、清国):広乙、広丙
揚威型防護巡洋艦(1881年、イギリス)揚威、超勇
福靖(巡洋艦)(1883年、イギリス)
済遠(1885年、ドイツ)
致遠型(1887年、イギリス):致遠、靖遠
海容型防護巡洋艦(1898年、イギリス):海容、海籌、海琛
海天型防護巡洋艦(1898年、イギリス):海天、海圻

ドイツ海軍
フランス海軍
三等巡洋艦「トルード」1900トン台の小型巡洋艦ながら艦隊の偵察任務から通商破壊戦まで行える実力を持っていた。
三等巡洋艦「フォルバン」1900トン台の小型巡洋艦。
二等巡洋艦「デストレ」2400トン台の中型巡洋艦。本艦により小型巡洋艦の建造は終了した。フランス海軍は1881年にイギリス海軍が防護巡洋艦「エスメラルダ」を起工する情報を掴み、一年後に名造船士官エミール・ベルタンの設計による防護巡洋艦「スファクス」を建造して対抗した。当初は長期間行動可能な大型なものを「艦隊巡洋艦」と呼称し、それ以外の小型のものを二等、三等と区別したが、後に機関技術の発達で小型のものでも艦隊行動が可能となり区別が曖昧となった為、艦隊巡洋艦は一等巡洋艦に呼称が改められた。

この頃のフランス海軍では艦隊の偵察任務だけでなく、通商破壊戦にも使用できる大型・中型の艦形を重視していた。技術面では高性能機関の開発・採用、区画細分層(Celluar Layer)化による浸水極限設計の開発などで旧来の設計に見切りをつけて近代巡洋艦の基礎をこの時に構築した。更に防御様式の理論を発展させた結果、舷側にも防御を持たせる装甲巡洋艦を発明したため、1897年に防護巡洋艦の建造を終了し以降は装甲巡洋艦の整備に邁進した。

スファクス (Sfax) ※ 仏呼称:艦隊巡洋艦
タージュ (Tage) ※ 仏呼称:艦隊巡洋艦
アミラル・セシル (Amiral Cecille) ※ 仏呼称:艦隊巡洋艦
ダブー (Davout) ※ 仏呼称:二等巡洋艦
シュシェ (Suchet) ※ 仏呼称:二等巡洋艦
フォルバン級 - 3隻 ※ 仏呼称:三等巡洋艦:フォルバン (Forbin)、シュルクーフ (Surcouf)、コエトロゴン (Coetlogon)
トルード級 - 3隻 ※ 仏呼称:三等巡洋艦:トルード (Troude)、ラランド (Lalande)、コズマオ (Cosmao)
リノワ級 - 3隻 ※ 仏呼称:三等巡洋艦:リノワ (Linois)、ガリレ (Galilee)、ラヴォワジェ (Lavoisier)
アルジェ級 - 3隻 ※ 仏呼称:一等巡洋艦:アルジェ (Alger)、イスリー (Isly)、ジャン・バール (Jean Bart)
フリアン級 - 3隻 ※ 仏呼称:二等巡洋艦:フリアン (Friant)、シャスルー・ローバ (Chasseloup Laubat)、ビュジョー (Bugeaud)
デカルト級 - 2隻 ※ 仏呼称:二等巡洋艦:デカルト (Descartes)、パスカル (Pascal)
ダサ級 - 3隻 ※ 仏呼称:二等巡洋艦:ダサ (D'Assas)、カサール (Cassard)、デュ・シャイラ (Du Chayla)
カティナ級 - 2隻 ※ 仏呼称:二等巡洋艦:カティナ (Catinat)、プロテ (Protet)
ダントルカストー級 - 1隻 (1隻計画中止) ※ 仏呼称:一等巡洋艦
ギシャン (Guichen) ※ 仏呼称:一等巡洋艦
シャトールノー (Chateaurenault) ※ 仏呼称:一等巡洋艦
デストレ級 - 2隻 ※ 仏呼称:二等巡洋艦:デストレ (D'Estrees)、アンフェルネ (Infernet)
ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエール (Jurien de la Graviere)

ポーランド海軍
倉庫として使用される防護巡洋艦バウティクポーランド・ソヴィエト戦争の勝利で独立を確固たるものにしたポーランドであったが、1920年代になっても海軍の整備は遅れたままであった。早急に大型艦船を国内で調達することが難しかったことから、1922年にフランス海軍を除籍された防護巡洋艦ダントルカストーを中古で購入して配備することとした。ダントルカストーは1927年当初はクルル・ヴワディスワフ4世としてポーランド海軍に登録されたが、バウティクと名を改めた上で1930年4月1日付けで正式に海軍へ配備された。

ポーランド海軍唯一の巡洋艦となったバウティクであったが、第二次世界大戦の始まった1939年9月1日にドイツ空軍機による爆撃を受けた。その後はナチス・ドイツ軍によって接収されて倉庫として使用されたが、1942年に解体された。

ロシア帝国海軍
ロシアの代表的な防護巡洋艦アヴローラの概略図ロシア帝国における防護巡洋艦の整備は1880年代初頭から始まり、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国などから艦を購入するとともに国内でも建造を行った。しかし、いずれの艦級もあまり大量生産はされず同型艦のない艦級が多かった。加えて、日露戦争で防護巡洋艦は大きく勢力をそがれることになった。

ロシア最初の防護巡洋艦とされる艦艇は、建造当時は「コルベット」に類別されたヴィーチャシ級防護コルベットであった。しかし、同級の船体構造は機関室を守る軽微な防護甲板を持っていた以外はほとんど旧来のスクリューコルベットのままで、本格的な防護巡洋艦と呼べるものではなかった。次に導入されたのはフランスで建造されたアドミラール・コルニーロフで、これはより本格的な防護巡洋艦となったが同型艦は建造されず、以後10年にわたって防護巡洋艦の建造は途絶えた。

1892年2月1日にロシア帝国海軍で新しい類別が採用されると、防護コルベットは装甲フリゲートと合わせて「一等巡洋艦」に類別された。これに伴い、防護コルベットは防護巡洋艦、装甲フリゲートは装甲巡洋艦と呼ばれるようになった。「二等巡洋艦」には、旧来の「巡洋艦」のうち装甲装備を持たない艦(従ってアドミラール・コルニーロフ以外の旧「巡洋艦」)や旧来の「クリッパー」が類別された。


一等防護巡洋艦ヴァリャーク次の防護巡洋艦が導入されたのは1898年で、フランスで建造されたスヴェトラーナが配備された。スヴェトラーナは当時の標準的な防護巡洋艦とされ、発展型のパルラーダ級(ジアーナ級)が建造されるに至った。この後、主に太平洋方面の防備に振り分けられる大型艦として防護巡洋艦の建造が盛んになり、ヴァリャークやアスコーリトが配備された。

20世紀を迎える頃には元「クリッパー」や「巡洋艦」に類別された非装甲の「二等巡洋艦」は完全に第二線級の扱いを受けるようになり、かわってクリッパー規模の小型の防護巡洋艦が太平洋方面向けに建造されるようになった。こうしたことから防護巡洋艦の内訳は細分化され、重装備の「遠距離偵察艦」と軽装備の「近距離偵察艦」に分かれた。但し、後者には防護巡洋艦とは呼べないアルマースのような巡洋艦も含まれており、その概念は必ずしも防護巡洋艦には相当しなかった。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース


一等防護巡洋艦ボガトィーリボガトィーリ級は最後に整備された大型の防護巡洋艦(遠距離偵察艦)となった艦級で、ドイツで建造された1隻を含む5隻が起工された。これが、ロシア海軍の防護巡洋艦では最大の同型艦数であった。太平洋方面に配備されたボガトィーリは、ロシア極東における最良の巡洋艦と呼ばれた。

日露戦争の敗戦後、海軍計画の見直しにより防護巡洋艦は建造中であったボガトィーリ級の黒海艦隊向けの同型艦を除き一切の建造が打ち切られた。建造中の火災により工事の遅れていたヴィーチャシは防護巡洋艦として整備することを取りやめられ、水上機母艦として工事が進められることとなった。1910年代になると新しい建艦計画に従い従来の装甲巡洋艦や防護巡洋艦はタービン推進の軽巡洋艦に代替されることになり、防護巡洋艦の整備は正式に終了した。しかし、軽巡洋艦は帝政時代にはついに完成せず、ロシア革命に至るまで防護巡洋艦は艦隊の中核として重要な位置を占めていた。

一般に、ロシアの防護巡洋艦は武装は152 mm砲と水中発射型魚雷発射管が装備された例が多かった。一部の艦では152 mm砲はより性能の優れた130 mm砲に換装された。小型の近距離偵察艦には水雷巡洋艦並みの120 mm砲が装備された例もあった。

一等防護巡洋艦
ヴィーチャシ級(1883年、ロシア):ヴィーチャシ、ルィーンダ
アドミラール・コルニーロフ(1885年、フランス)
スヴェトラーナ(1895年、フランス)
パルラーダ級(ジアーナ級)(1897年、ロシア):ジアーナ、パルラーダ、アヴローラ
ヴァリャーク(1898年、アメリカ合衆国)
アスコーリト(1898年、ドイツ)
ボガトィーリ級(1898年、ドイツ):ボガトィーリ、ヴィーチャシ、オレーク、オチャーコフ、パーミャチ・メルクーリヤ

二等防護巡洋艦ノヴィーク二等防護巡洋艦
ノヴィーク(1899年、ドイツ)
ジェームチュク級(1901年、ロシア):ジェームチュク、イズムルート
ボヤーリン(1900年、デンマーク)
一等防護巡洋艦(鹵獲艦)
プルート(1901年、アメリカ合衆国) ※オスマン帝国艦を第一次世界大戦中に鹵獲。

2009年02月18日

自然

自然(しぜん)には次のような意味がある。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

人為が加わっていない、あるがままの状態、現象、およびそれによる生成物
1の意味より、山、川、海など
1の意味より、人間を除く自然物および生物全般
1の意味より、ヒトも含めた[1]天地・宇宙の万物
意識(意図)しない行動
不思議だったり、不可解だと思われることがない事。
ヨーロッパ諸語では、自然は本性(ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす(例えば、英語・フランス語の「nature」がそれである)。外国語文献の翻訳を読む際には「本性」の含みがないか常に留意すべきである。例えば「自然と人為」などという対比にぶつかった時、そこでの人為には単に「自然物に対して手が加えられた」という意味だけでなく「人為によって本性が捻じ曲げられた」というニュアンスが含まれているかもしれない。

日本語では自然という語は平安時代にさかのぼる。平安末期の辞書である『名義抄』に「自然ヲノヅカラ」とあるのがもっとも古いようである。より古くは、中国のいわゆる老荘思想では無為自然という語があるが、老子などには無為はあっても自然はない。いずれにせよ、この語は意図せずに、意識的でなく、と言うような意味である。人の手の触れない地形や環境を指す言葉としての自然は、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われ、そのような使われ方は明治中期以降のことである[2]。日本語としては天然(てんねん)がほぼ同義であるが、使われ方はやや異なる。現在では単に天然と言えば天然ボケを指すこともある。なお、自然(じねん)と読んだ場合、むしろあり得ないものが勝手に生まれるのを指す。

「自然に還れ」は、ジャン=ジャック・ルソーの思想の一部を端的に表した表現である。人間社会の人為的・作為的な因習から脱出し、より自然な状態へと還ることを称揚している。

自然(じねん)
「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。

自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定する。外道の思想のひとつである。

また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。

意味
おおまかに考えた場合、自然とは人間の意志や知性の関わらないもの、と取れる。

たとえばこの世のものは人間の営みでは作られない。それは神かも知れないし天かも知れないが、いずれにせよ、人智を越えたものである。だからこれを自然という。この場合、人間もその一部として含めざるを得ないであろう。自然科学の自然はこれに当たる。さらに、自然現象ではあり得ないのに、人為的なものでもない現象があるとすれば、それらを越える何かを仮定せざるを得ない。それが超自然である。

人間はそのような世界を作り替える能力があり、しかも本来の形を規則的な、そのままではあり得ない姿に変えることができる。これを人の意志によるものと考えた場合、それが触れられていない物を自然と呼ぶ。自然保護という場合の自然はこれであろう。

また、我々の体は自然かも知れないが、それを動かしているのは意志や知性である。したがってそれに操作されるものを自然とは見なしがたい。しかしながら、思わず体が動いてしまう瞬間というものがある。そういう場合、それを自然な動きというような言い方で表す場合もある。また、他者の意志が関わったものは不自然である。たとえば星一徹に幼少時から野球だけを仕込まれた星飛雄馬は「不自然な成長」の仕方をしたと言っていいだろう。

幾何学的なヴェルサイユ宮殿の庭園一つの傾向として、西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。西洋では人の知性は基本的に良きものであり、それによる判断に沿わない自然のあり方は、この判断に立つ限り悪である。たとえば幾何学図形は美しいが、自然界にはそれは見られない。だから人間の能力で幾何学的に自然物を並べて見せたのが西洋風の庭園である。東洋では往々に人間の知性をこざかしいものと見て、天の采配に逆らわない方がよいとの判断がある。したがってその庭園は自然界の美をできるだけ取り込み、左右不対象、あるいは対象性を少しずらせた配置を基本とする。

自然と管理
自然のままの、つまり人工的な手が入っていない場所では思わぬ危険が多い。スキー場のゲレンデの外へ出る部分や、山や沢のルートで整備域の外へ出る部分に「立入禁止」の掲示があることが多いが、「禁止」などと「おせっかい」で「かまってくれる」表示ではなく、「ここから先は誰も知らない」という旨の表現でいいのではないか、はよくいわれる議論である。助けを求めることが出来るなら、救助は来るかもしれないが、“自然”の地へ入っていくときにはよく心がけたい。

要するに、自然な環境へ人工的に手を入れる目的の一つに、人間の安全の確保がある。特に日本では客が入る可能性のある場所での事故があった場合、その地域の管理責任者が責任を問われることが多く、それを避けるために過剰な手入れが行われる傾向がある。上記の事例はその結果と言える。

2009年01月28日

上月城の戦い

上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。

上月城は播磨・美作・備前の三国の国境にある要衝の地であり、毛利側としては織田氏との対決の為には絶対に手に入れなければならない拠点である。しかしこの地が織田氏の羽柴秀吉の手に落ちた。そして尼子氏残党である尼子勝久や宿敵・山中幸盛(鹿介)らがこの上月城の防衛を任された。
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これに対し、毛利輝元は1578年3月、上月城の奪還と尼子残党の討伐を計画。輝元は35,000の大軍を率いて吉田郡山城を出陣、小早川隆景も28,000の兵を率い三原城を出陣して山陽道を進撃、山陰の雄・吉川元春も23,000の兵を率い日野山城を出発して山陰道を進撃、上月城攻略に向かった。毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多忠家も10,000の兵を率いて参陣した。他に毛利・村上水軍700艘が播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了した。この時の総動員兵力は100,000人を超えるもので、打倒尼子の意気に燃える毛利氏の執念を垣間見ることができる。

輝元軍は備中高松城に本陣として駐留。残りの61,000が播磨へと向かい、4月18日には早くも上月城の包囲を開始した。

上月城を守るのは尼子勝久を総大将とし、山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通らの諸将が率いる3,000の兵であった。

羽柴秀吉、上月城への支援へ向かう
毛利軍が上月城に迫ったとの報を受けた際、羽柴秀吉は三木城の攻撃に当たっていた。しかしただちに上月城の支援を決意し、17,000の兵を率いて高倉山に進出した。織田信長も嫡子・織田信忠に兵を授け、救援に向かわせた。

この時点で織田軍の総兵力は72,000であったが、三木城を攻撃中でもあり、不穏な空気に包まれている播磨国東部の守備に多くの兵を割かねばならず、実際に上月城救援に向かえる兵力は羽柴秀吉・佐久間信盛・荒木村重率いる30,000、その中でも秀吉が直接指揮できる部隊はわずか17,000人であった。戦上手の秀吉でも60,000人以上の兵力を率いる毛利軍に対して、積極的に攻撃に出られる兵数では無かった。

これに対して毛利軍は陣城の構築を進めており、深い空堀や塹壕を掘り、塀を巡らし柵や逆茂木で防備を固め、完璧なまでの攻城線を敷いた。そして連日法螺貝や太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、城内に籠る尼子軍の戦意を喪失させようと画策した。

小競り合いは起きるものの、尼子軍の兵糧は少なくなり、山中幸盛の叱咤激励にも関わらず士気は衰える一方で、逃亡兵も相次いだ。毛利軍も城を強襲するつもりはなく、月山富田城攻略のように兵糧攻めにし、尼子軍の自滅を待つ作戦であった。上月城の水源も押さえ、なおかつ糧道も完全に断っている。最早尼子軍は「俎板の上の鯉」であった。

毛利 対 秀吉
羽柴軍は上月城の目と鼻の先である高倉山に駐留するものの、圧倒的に劣る兵数では上月城に対する積極的な支援を行うこともできず、自陣の防衛だけで手一杯であった。隙を見せれば毛利軍60,000が一斉に襲ってくる恐怖は秀吉にも耐えがたいものであった。

進退に窮した秀吉は6月半ばに密かに高倉山を抜け、京都へと走り、織田信長に直々の出陣を要請した。しかし信長は使い捨て同然の尼子再興軍3,000など眼中に無く、まずは三木城の別所長治を討つべしと秀吉に命令した。このまま三木城を放置していては、中国に進出している織田軍は退路を断たれるのである。上月城の尼子主従はここに見捨てられることとなったのである。秀吉は尼子主従の忠義を思い、「上月城を棄て、共に撤退するよう」尼子軍に書状を出したが、尼子主従はこれを黙殺し、毛利軍との対決の道を選んだとされるが、秀吉退却後間もなく尼子軍は降伏しているため、秀吉が人情深い人間とするための脚色だと思われる。

熊見川の戦いと羽柴軍の撤退
6月25日、羽柴軍は撤退準備に入ったが、これを察知した毛利軍が攻撃を開始し羽柴軍は一時は総崩れとなり、大打撃を被った。(熊見川の戦い) 翌26日、羽柴軍は瀕死の重病人のようになりながらの散々の退却を行った。ただ毛利軍がそのまま東進して、織田信忠と対決に及ぶことはなかった。

この戦いに参加していた毛利軍の武将・玉木吉保著作の「身自鏡」には退却した羽柴軍の陣前に「夏山に立てる羽柴の陣なれば、秋(安芸)風吹けば散り失せにけり」という歌が毛利軍兵士の手によって残されていたと記録されている。

秀吉のこの戦いの経験が、後の中国攻略に於いて毛利軍との直接的な戦闘を避ける事に繋がったと思われる。

尼子主従降伏 上月城落城
秀吉が救援を断念した現状に於いて、徹底的な抗戦は無理という考えが城内の主流となり、降伏が取り沙汰されるようになった。7月1日、尼子主従は抗戦を諦め、城兵の助命を条件に尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らは自刃し、開城することとなった。7月3日、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久らは自刃し、山中幸盛も捕虜となり、後に安芸国に送られる途上で殺害された。これによって70日に及んだ上月城攻防戦は幕を閉じ、尼子氏再興も夢と消えたのである。

その後の影響
この戦いが今後始まる“毛利 対 織田”の本格的な対決のはしりとなったのである。羽柴秀吉は三木城を奪還後、兵力増強し再度中国攻略へと向かい、毛利氏は近畿で織田氏に抵抗を続ける本願寺顕如が籠る石山本願寺への支援を行うのである。この両軍の争いは「本能寺の変」が起きる1582年まで続くこととなる。

2009年01月20日

結論の明確さと反証可能性

結論の明確さの判断に関しては、特に疑似科学の批判活動において「ホパーの反証可能性の原則」がよく引き合いに出される。確かに本質的に立証も反証も行えないような対象は、原則論としては科学の対象とはみなされない[1]。しかし、特に研究の最前線においては、現実には、「ホパーの反証可能性の原則」は、言われているほど現実の研究者には、受け入れられておらず、むしろ軽視されているという指摘さえある[28]。

現在の研究の最前線において、反証可能性の原則が、実際にはきわめて軽視されている現状に対しては、危機感をつのるものもいる。例えばリース・モーリン博士は、現在の最前線における物理学の理論が、「どのような実験結果でも取り込めるほどパラメータが多い」ことを指摘したうえで、反証可能性を軽視している傾向を、「物理学の迷走」と断じている[28]。実際、モーリン博士が指摘するように、最近の素粒子物理、量子情報、物性理論等は極めて数学に近い様相を呈しているため反証可能性の原則を逸脱していることはしばし指摘される。また、特に、萌芽的な理論においては、実験がどんな結果を出してもそれを取り込めてしまうほどパラメータが多く、しかもそのパラメータの物理的な意味が不明確であることもしばしば指摘される。現在でも、このことを理由として権威ある雑誌への掲載が拒まれることがあるとされる[25]。

しかし、この傾向も最近では現実的な方向にシフトしつつある[25]。現実の科学研究の進展においては、仮説はあいまいなところからはじまり徐々に明確になっていく傾向があり、論文を書く場合には簡単には反証されないように細心の注意を払う傾向があると指摘される[4]。特に、萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、近縁の系に対して予測を立てる」という手法がよくとられる。そして、このような手法が、特に物性予測等の分野(例えば、広い意味での第一原理計算)をはじめとした応用分野では、現実に役に立つ材料や装置の開発等において極めて強力な指針を与えるなど、一定の成果をあげているのも事実である。尚、、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、近縁の系に対して予測を立てる」という手法は、シュレーディンガー方程式等の、物理学の基本となる方程式のほとんど全てが、大概の場合に厳密解を求められないことによる。厳密解を求められない以上は、なんらかの近似をせざるえないため、なんらかの”反証”となる実験結果が出たとしても「基礎方程式の間違い」なのか、「近似のまずさ」なのか、「実験の問題」なのかは必ずしも明確ではない。

また、反証されたことは、必ずしも間違いを意味しない。通常の科学者は、ある理論に対していくつかの反証となる例が発見された場合にも、理論自体を全否定するという考え方はせず、それを修正する/適用範囲を制限するという対応をするほうが一般的であり、より精度を高めてより広範に受け容れられるように何らかの変更を加えることが通常である[1]。例えば、相対性理論の有用性は、古典力学の反証によって立証されたが、相対性理論の構築は、ニュートン力学を破棄、否定する形をとらず、むしろニュートン力学がより一般的な概念の中で適用範囲が限定された一つの近似であるにすぎないことを示す形で行われた[1]。さらにニュートン力学に基づいた計算は現在でも科学技術の最先端で使われることが多々ある。この意味でも「ニュートン力学が相対論によって否定された」とまで言い切るのは早計であり、現在の科学者の標準的な考え方とは大きく異なる[1]。

科学的方法を実行するための素養
科学的な方法を実行する上では、調べるべき対象への知識、それ以前の基礎的な知識などが要求されるが、 このような知識面以外に、「対象に影響を与えるドミナントな支配法則 をまず考慮して概略の傾向を数値的に掴むこと 」 「実験ノートをきちんとつけられること」、「一定の計算力、論理的な思考力」などの 知識面とは異なる素養、具体的にはスキルや評価項目が存在すると考えられている。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

研究者レベルの人間に必要な素養全てを書きだすことは難しいが、教育レベルでは、ある程度明確化されてきている。 一般に、教育レベルでは、以下の素養を身につけることが必要であると考えられている。

科学での考え方と証拠
いかに科学的な考え方が発表され評価され広まっていくか(例えば、出版物や他の科学者のレビューによって)。
経験的な証拠を異なって解釈することからいかに科学的な論争が巻き起こるか(例えば、ダーウィンの進化論)。
科学的な仕事が、それがなされる状況から影響を受ける様(例えば、社会的、歴史的、倫理的、精神的)と、そうした状況が考え方を受け入れるかいなかにいかに影響を与えるか。
産業的、社会的、及び環境的な問題に取り組む際の科学の力と限界について考察すること。それは、科学が答えられることと答えられないこと、科学的な知識の不確かさ及び関連する審美的な諸問題も含む。